アタッチメント的考察(2)「いじめ」はなぜ起こるのか?
前回の話を受けた上で、いじめは、なぜ起きてしまうのか?という問いに応えると、「いじめる側が存在するから」という当たり前の答えに行きつきます。いじめる側さえいなくなれば、いじめはなくなるのです。(前回の記事をお読みでない方は、、お読みいただいてから、この先をお読みください)
ここで新たな問いが生じます。「いじめる側」は、なぜいじめるのでしょうか?ジャイアンやスネ夫のようなキャラクターだからでしょうか?もちろん、答えはNOです。現代のいじめにおいては、「いじめる側」さえも、「いじめられる側」と同じように、よくわからないうちに、結果的にいじめをしてしまているのです。場合によっては、いじめをしている認識さえないこともあります。だから、いじめていた側の子が、ある日突然いじめられる側になったりするのです。つまり、「いじめる側」と「いじめられる側」には、相関性もなく、誰もがそのどりちらにもなり得るのです。では、なぜいじめるのか?子どもたちをいじめに駆り立てるのは、「ある種の不安と恐れ」です。子どもたちは、その「不安と恐れ」に対処する方法を知らないため、「いじめ」という手段によって、安心を得ようとしているのです。そこには、邪気も悪気も存在しません。ただ、怖くて、不安でそうしてしまうのです。そのように考えると、先ほど来話してきた「現代のいじめ」のメカニズムを、すべて説明できます。
では、子どもたちが抱える「ある種の不安と恐れ」とは、一体なんなのでしょうか?それは、「生きていることに対する許しと生きていくことに対する自信」の裏側とでも言うようなものです。くだいて表現するなら「ありのままの自分」が存在しても良いのか?という事への不安と恐れです。
われわれ人間は、良くも悪くも、他者との比較の中に、自分を見出すものです。つまり、自分の存在というのは、相対的なものなのです。それ自体は、悪いことではありません。しかし、相対的な自分ばかりでは、比較対象が変わるたびに、良い方に行ったり、悪い方に行ったりして、心は常に不安定になってしまいます。だから、そうならないために、「どんな時にもブレない自分」というものを、心の奥底に持っています。つまり絶対的な自分です。それは、「私は、この世においてかけがえのない価値のある存在である」という自信です。その自信には、根拠もなければ、他者との比較もありません。絶対的な自信なのです。心理学用語では「自己肯定感」と言います。これは、小さいころに、親から与えられたものです。これがあるから、相対的な自分に悪い状態が生じて心が揺らいでも、最後には安定していられたり、気持ちを切り替えて良い状態を想像したりできるのです。また、絶対的な自分は、不安や恐れが大したことではない、と教えてくれます。例えば、学校で嫌なことがあっても、家に帰って家族と楽しく食事したら、嫌なことなんて忘れてしまう、ということがありますね。
この「絶対的な自分」(自己肯定感)が、うまく育っていない子どもは、学校で起きる様々な相対的な出来事に翻弄されるわけです。その度に、自分が存在する価値があるのかどうか、不安になり、生きていることが怖くなるのです。その不安と恐れは、あまりに漠然としています。なぜなら、理由などないからです。本来、「根拠もなく持っているはずの自信」が、備わっていないのです。
その不安と恐れに対して、どうしていいかわからずに本能的に取る行動は、「自分より惨めな存在を見ることによって、安心を得ようとする」という行動です。それが「現代のいじめの正体」です。そして、そのような子どもが、意外にも多いからこそ、いじめは、集団化するのです。
(次回に続く)