食で育む心の成長

食育において、本当に大切なのは何?

食育

以前、テレビドラマ「マルモのおきて」という番組の中に、こんなエピソードがありました。

主人公マルモは、様々な事情で、亡くなった親友の双子の子ども(小学校1年生の姉弟)を、親友に代わって育てています。本当の家族ではないマルモと双子の3人が、徐々に本当の家族になっていく物語です。

この物語で、ある時、マルモは、双子を連れて、山梨に住む学生時代の後輩のところへ遊びに行きます。その家にも、双子と同じくらいの兄妹がいます。ぶどう園を切り盛りするお父さんと、ライターの仕事をしていて、いつも忙しく、家の中の仕事部屋にこもって仕事をしているお母さんと、おばあちゃんの5人暮らしです。

その家での食事シーン。お母さんは、おいしそうな料理をたくさん作ってくれるのですが、忙しいので、一緒には食べずに、料理を出したら、仕事部屋へ戻ってしまいます。二人の兄妹は、いつも寂しそうに食事しています。お父さんとおばあちゃんも、あまり話しはしません。そんな静かな食事風景です。昔は、夫婦仲良くぶどう園をやっていたのですが、家計の心配から、結婚前にやっていた稼ぎのよいライターの仕事を再開したのです。子どもたちの将来のためには、ぶどう園の収入だけでは足りないと考えてのことです。

そんなお母さんに、マルモは、こんなことを言います。「うちの双子たちは、白いごはんにゴマ塩をかけただけでも、幸せそうに、うれしそうに食べるんです。そういう幸せも、大事なんじゃないかな~」

このエピソードは、アタッチメント食育の根幹の考え方を表しています。マルモの言う「そういう幸せ」こそが、アタッチメント食育で言う「高次の欲求段階」です。体に良さそうな田舎料理、何種類ものおかず、そんな栄養学的には満点の夕食でも、お母さんが一緒じゃなかったら、子どもにとっては寂しい、空腹を満たすだけの行為となってします。食・心理学的に言えば、マルモの家族は、家族そろって、楽しく会話しながら食べる食卓ですので、所属欲求やその上の承認欲求が満たされています。ただの白ごはんとごま塩でも、とっても美味しいし、幸せです。しかし、後輩の家族の食卓は、家族みんなが一緒じゃないこと、家族の会話が無いことを考えると、たとえ栄養価が満たされていても、安全欲求の段階にとどまります。

家族

かといって、いつも白ごはんとごま塩では、栄養学的に問題があるでしょう。要するに大事なのは、バランスです。少なくとも言える事は、アタッチメント食育の考え方においては、栄養価よりも、心の充足の方が、より高次の欲求を満たすことにつながるということです。いつも、栄養価を考えた食をする必要はありません。栄養価よりも、親が気を使ってあげなければならないのは、食卓という場をどうデザインするかなのではないでしょうか。

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