ミッドライフ・クライシス(中年の危機)と真面目に向き合う

“ミッドライフ・クライシス(中年の危機)”

わたしが、この言葉を自分事として意識したのは、40歳になった2010年ごろでした。もともと、ユングが提唱する太陽運行モデルには、人が生きる上での本質を感じていたので「(ミッドライフ・クライシスに陥らないために)40歳になったら“人生の正午”に向けて、対応をはじめよう」と意識していました。おかげで、大きなクライシス(危機)には直面することなく、ここまで来ることができています。


誰もが「中年の危機」を憂える時代に突入した

もともと“ミッドライフ・クライシス”という言葉は、わたしの認識では心理学におけるマニアックな概念でした。ところが、最近は、そうでもないようです。先日NHKでこんな番組を観ました。

クローズアップ現代「ミッドライフクライシス “人生の曲がり角”をどう生きる」

すでに一般的な関心事のようです。番組では、男女いろんな人の中年の危機が紹介され、その抜け出し方も指南されていました。そこには、ある共通点がありました。危機はどれも「人との関わりや繋がりが感じられない」ことに起因していたのです。そして、その解決法もまた、人との関わりの中にありました。中でも象徴的だったのは、58歳になった小泉今日子さんの言葉。

「同世代を元気にしたい!わたしも元気でいたい!」

その思いで、ラジオ番組やイベントをとおして、中高年の悩み相談に乗ったり、中高年のためのイベントを催したりして、自らもそこに“やりがい”を見出しているというのです。まさに、人との関わりをとおして、自分も活力を得るという姿勢です。どうやら、ここら辺にカギがあるようです。

ミッドライフは、年齢ではなく、人生構造の変化である

ところで、わたしは40歳になったころ、この問題への対応を始めたと言いましたが、今思えば、わたしの四十代は、まだ“人生の正午”には差し掛かっていませんでした。本当の“人生の正午”は、50歳になってからでした。タイミングを左右したのは、子育てです。末っ子の次女が大学に入学して実家をでて、夫婦二人になった時が、“人生の正午”のはじまりだったのです。わたしに限らず、多くの現代人にとって、人生の正午に入った指標は、年齢ではなく、「子育ての卒業と仕事の定年」の兼ねあい、つまり人生構造の変化なのでしょう。そうすると一般的には、55歳前後が、現代における人生の正午と考えた方が現実的のようです。

ユング先生の言うとおり、これまで優先してきた価値観の反転が始まりました。まさに昇り続ける午前から、正午を起点に降り続ける午後に入ったのでした。人生ゲームのルールが変わったようなものです。子育てと教育に関するエネルギーと予算配分に目途が立ったことで、仕事のあり方、稼ぐことへの優先順位が変わりました。それは、大きな人生課題(生きがいの一つとも言えます)を終えたことを意味します。同時に、これからの夫婦二人きり(その先に訪れるかもしれないたった一人)の人生を描くという“大いなる転換”でもあります。

お金持ちのおじいちゃん(おばあちゃん)では、幸せになれない

わたしは今、一つの結論と確信に至っています。これまで重視してきた「お金を稼ぐこと」よりも、「人と関わり、人から必要とされ、感謝されること」の方が、人生の午後には、はるかに重要になります。そうなると、仕事や働くということの意義も、これまでとは変わってきます。ユングの指摘したとおり、午前と同じやり方を午後に入っても続ければ、すべての結果は裏目に出て、クライシス(危機)へまっしぐらです。

人生の午後に入ったとき、いつまでも親であり続けてはいけない。子育ては終わったのだから。仕事で成果を出し、活躍し続けてはいけない。近く定年退職が訪れるのだから。反対に、これまでと同じようにお金を稼ぐ必要もなくなった。

理屈ではわかっていても、実際にこの事実に直面した時、「どのような人生を描くのか?」が問われます。何度も言いますが、お金を稼ぐことや、仕事ができることは、午前の価値観であり、もはやクライシスへの入り口です。そこから生ずる人との関わりは、虚しさと葛藤を生むだけです。

人生の午後の戦略は、親切であるとか、物知りである、身近で頼れる、恩着せがましくない、おおむね機嫌が良い、そんなおじいちゃん(おばあちゃん)であることです。お金や仕事の意味は、そのように“在る”ための余裕を与えてくれることにあります。この方針で人と関わると、他者は、わたしを必要としてくれて、活用してくれて、感謝してくれます。わたしにとって、それこそが“人生の午後を生きる意味”になります。

二人の娘にとって、妻にとって、家族にとって、近所の人にとって、仕事で関わる人にとって・・・わたしは、そのように“在る”ことを目指していきたい。

きれい事を、いかに真面目に、ピュアに、楽しく、幸せにやり通せるか

こんなものは、ただの“きれい事”に聞こえると思います。実際そうです。きれい事です。しかし、ユングやエリクソン、レヴィンソン、マズローといった、この道(生涯発達心理)の先人たちが結論づけたこともそうでした。きれい事を、いかに真面目に、ピュアに、楽しく、幸せにやり通せるかどうか。人生の午後の発達課題は、そうした世界観への旅路の先にあるようなのです。

まずは形だけでも、人生の午後の方針をなぞる

ところで、人生の午後を歩みはじめのわたしは、まだまだ午前の価値観さえ捨てきれてはいません。いまはまず、形から入っているに過ぎません。形だけでも、午後の方針として間違っていないことが重要だと信じて進んでいます。具体的な展開については、これまで語ってきましたし、これからも発信していきます。

キーワードは、「シニアによる子育て支援」、「世界の中のワタシ」、「体験教育」といったあたりになるでしょう。

そうした場所で、親切で、物知りで、身近に頼れて、恩着せがましくなく、おおむね機嫌のよい “おじいちゃん”として、活動してゆこうと考えています。


一般社団法人日本アタッチメント育児協会

理事長 



◼️関連記事(こちらの記事もぜひご覧下さい)




コメントは受け付けていません。

このページの先頭へ