第14回育児セラピスト全国大会in2023 シンポジウム
川の向こうにわたって「世界の中のワタシ」を育てる
今年の全国大会シンポジウムは、わたし廣島大三が登壇させていただきました。本来なら、知見をもった先生を外部からお招きして、いつもとは違う視点から学びを得る機会としております。しかし今回は、「今年(2023年末)のうち」にどうしても、わたしからみなさんへ、ある疑問を投げ、問題提起をさせていただきたかったのです。そして、それをみなさんと共有し、話し合いたかったのです。
なぜ「今年のうち」でなければならなかったの?
「80年周期説」というのをご存じでしょうか?天変地異は80年ごとに起こっている、歴史の変わり目は80年ごとに訪れているなど、80年というタームで、ある種の法則性を見出し、時代の転換点はどこか、これから来る80年の時代性はどんなものかを予測する、というものです。
わたしは、世の中の「時代性」を確認するときに、この80年周期説を活用しています。“当たる当たらない”という話ではなく、“信頼のおける参考情報として活用する”という話です。実際に解釈するときには、「80」という数字は「70」であったり、12年周期の6まわり目の「72」であったりします。
今世を代表する心理学者C・Gユングは、集団的無意識を説き、人類に共通の物語を提唱しました。わたしが80年周期説を活用するようになったのは、このユングの考え方と、80年周期説に、ある種の共通点というか、人類的な符号点のようなものを見出しているからかもしれません。
この80年周期説で近代日本を捉えると、1787年から行われた寛政の改革によって江戸幕府は財政危機を脱して新たなステージにはいりました。この80年後の1867年、大政奉還で江戸幕府は滅び、明治維新をむかえました。その78年後の1945年は、日本が敗戦し大日本帝国が滅び、その後、日本は経済成長の道を歩みます。
これまでの時代の歩みを振り返り、「次世代」に備える。2024年は、その準備の1年になります。この1年をかけて、わたしたちの意識を、つぎの時代に対応させておきたい、そう考えたのです。スキルアップ講座の「次世代こども教育コンサルタント」において、勉強会を定期的におこなうのも、その一環のつもりです。
「教育の二極化」ってなに?
さて、前置きはこのぐらいにして、本題に入りましょう。あらゆる社会が二極化される中で、「教育の二極化」という言葉もよく耳にします。ところで、みなさんは「教育の二極化」と聞いて、どんな状況を想像しますか?
たくさんの習いごとができる。塾に通える。私立学校に進学できる。これらがかなう家庭の子どもと、そうでない子どもの間で、教育の二極化が生じている。
これは、経済格差にひもづいて起こる「教育機会」の二極化でしょう。日本社会は、たしかにこの20年で「高所得層」と「低所得層」に分断され、かつての「中流層」がいなくなりました。これが経済の二極化です。その影響は、たしかに教育にも及んでいます。それが「教育の二極化」の様子です。このような捉え方をする方もおられるでしょう。
教育熱心な親の子どもは、勉強や進学を応援され、充実した学習環境を与えられる一方で、勉強も進学も軽視され、家事をゆだねられたり、ヤングケアラーになっている子どももいる。この二者の間で、教育の二極化が生じている。
この文脈は、親の考え方や教育方針による「教育環境」の二極化です。昔から教育環境に恵まれない子どもは一定数いましたが、いまはその数が圧倒的に増えて、二極化の一極を担うほどになっています。この場合、経済要因は間接的であり、むしろ親のリテラシーや、一人親世帯に特有の問題など、社会福祉的要因が横たわっています。
教育の二極化は、こうして進む
習いごとの多くは、「趣味・特技」の欄に書くことで、履歴書の見栄えを良くしてくれます。あるいは、“たしなみ”としての教養をアピールできます。スポーツの習いごとも、ひとつのスポーツに打ち込んだ経験を、世間は良いほうに評価してくれます。
学習塾は、良い成績を残すために必要不可欠だと考えられています。受験をするなら、なおのことです。良い成績をとって、受験勉強をして、早い段階で有名私立学校に子どもを入れることができれば、苦労させることなく有名大学に入れることができます。そうすれば、一流企業に入って将来は安泰です。親は子どもに、そんな将来像を描くことでしょう。
この前提のもとでは、習いごとにいけるか、学習塾にいけるか、私立学校にいけるか、は、子どもの将来にとって重要なことです。同時に、膨大なお金がかかります。だからこそ、教育の二極化が生じてきたのです。
これらは「次世代」においても真実なのでしょうか?
もし、前提が全く違うものになったとしたら・・・経済格差は、教育の二極化の要因でなくなるかもしれません。
たとえば、一流企業の採用基準で、「よい成績」や「有名大学」あるいは「スポーツの経験」や「たしなみの芸ごと」がカウントされなくなったら、学級委員や生徒会長、部活の部長やキャプテンといった経験が重視されなくなったら、少なくとも、習いごとをやっていなくても、学習塾に行っていなくても、有名大学を卒業していなくても、一流企業に入ることができてしまいます。
これは実は “たとえば”の話ではなく、現実に起こっている話なのです。外資系企業や、日本の会社でも、世界をまたにかけるグローバル企業やIT企業では、すでに採用基準において上記の要素のどれも重視されてはいません。ひとりでも多くの有能な若手人材を採るために、世界基準に合わせて、まったく別の採用基準を取り入れています。
それは、まさに「次世代」で活躍する人材です。それは、わたしたち大人が、これまで信じて疑わなかった人材像とは、まるで違うものです。むしろ、真逆の要素を持っている人材と言えるかもしれません。
大手企業が、いま欲しい人材像とは?
- 答えのない課題に、独自の仮説を立て、アプローチを見出すことができる
- 仕事のやり方を聞くのではなく、自分なりに調べて、解決の見当を付けたうえで、意見を聞きに来る
- なにか専門性や卓越性を持っている
- 前例や慣習にとらわれない方法にチャレンジできる
- 言われたことをやるだけでなく、その先の展開を見立て、次の仕事を自ら見出せる
企業はいま、こういう人材を欲しがっています。それがそのまま採用基準になっています。 こんな言葉を聞いたことはありませんか?「美大・音大採用枠」。大手企業のなかには、美大や音大を卒業した学生を一定数採用する会社が出てきています。「前例踏襲をぶちこわす」「常識にとらわれない発想や考え方をする」「正解のない問題に取り組む」ことを常に続けてきた人材を採用するのが狙いです。
こうした新しい採用基準は、早晩すべての上場企業に浸透し、その子会社へと引き継がれ、やがては、中小企業でも当たり前になり、世間の常識となっていくでしょう。
教育界も、新しい人材の育成に舵を切っている
さて、教育は、こうした変化にキャッチアップできているのでしょうか?じつは、教育界も変わってきています。探求型学習とか、アクティブラーニングという言葉を聞いたことがありませんか?小・中学校ですでに導入されている授業形態で、みずから問いを立て・考え・行動する能力が問われ、教わった解き方を適用する能力ではなく、解き方から考えたり、応用したりする能力が評価されます。
つまり、前述した「企業が欲しがる人材像」に対応しているのです。その評価基準もこれまでとは違います。決まった答えを答えるのではなく、問いに対し、自分の意見を言い、その裏付けを述べることを求めたり、知識の量ではなく、知っていることを、どう組み立て活用するかが重視されます。
これまでは、知識や覚えた公式の量と、それをどれだけ正確に答えられるかが、テストの点数で評価され、成績の良し悪しを決めてきました。授業の発言点は、手を挙げて、答えを答えた回数と積極度で決められました。いまはまだ、こうした評価基準の名残が残っていますが、それでも探求型学習やアクティブラーニングの授業では、「次世代の評価基準」が導入されているのも確かなことです。
次世代における真の教育の二極化とは?
旧世代の価値観のまま、子育てする親は、点数を追い、先取り学習が有利だと信じ、習いごとはできるだけ多くやらせ、偏差値の高い学校に入ることが、将来の幸せにつながると信じています。
次世代の価値観で、子育てする親は、子どもの自主性を重視して、決定権を子どもに委ね、子どもの能力特性とパーソナリティに合った教育機会をつねに考え、子どもの好奇心の先にある専門性を獲得することを教育の最終目的に据えます。
つまり次世代は、親の教育方針による「二極化」の時代になります。そこには、経済的な要因は影響しません。親の考え方と実践力がそれぞれの極を形成します。冒頭で触れた、社会福祉的要因による教育環境の二極化の問題も、親が適切な考え方を知れば、お金の問題は関係ありません。子どもも、勉強とは違う価値観や能力が評価されるようになります。
80年周期の次の時代に入るということは、2周前に江戸幕府が倒れ、1周前には大日本帝国が滅んだように、これまでの高度経済成長期の世界観が滅ぶことは間違いなさそうです。そして、いまの企業の採用方針をみれば、次世代の人材も見えてきます。そうなると、かなり高い確率で、わたしのシナリオは、現実になりそうです。
答えは10年・20年後、子どもが社会に出たときにわかります。
わたしたち大人は、よき方向へ向かっているのだろうか?
最終的に、親が子どもに願うのは、なんでしょうか?それは、金銭面と精神面の両方における「幸せな暮らし」。これに異論はないでしょう。そのために、いまの親は子どもになにを求めているのでしょうか?
歯に衣着せずに言えば、IQ・偏差値・テストの点数・成績表の評点、良い成績を取るために、塾に通うこと、出来る限り多くの習いごとをすること、よい大学に入って、一流企業に就職すること・・・というのが本音ではないでしょうか?
これまでの話を聞いて、考えや価値観に変化があったとしても、行動まで変えることは、むずかしいでしょう。それが、となりとは全く違うものであれば、なおのことです。やはり「みんなと同じ」が安心なのです。
それでも、あえて言います。勇気を出して、となりとは違う選択をしてみましょう。点数評価を捨ててみましょう。そうすると、見えてくる新しい光があります。それは、これまで気づかなかったお子さんの才能かもしれません。欠点が1周まわって長所であったことがわかるかもしれません。
次世代の教育が、重視しているものはなにか?
「非認知能力」という言葉を聞いたことがありますか?近年、教育界で注目されている、新しい能力基準です。将来に続く高い能力特性と、安定した情緒特性を示します。乳児期に、その土台が作られ、6歳までに活発に形成されます。
あるいは、「後伸び力」という言葉はどうでしょうか?テストの点数や、できた・できないに一喜一憂するのでなく、将来伸びるもっと大事な能力を信じてあげれば、あとになって、その子は大きく伸びます。文科省も「後伸びする力」として、これに言及していて、非認知能力と同じ文脈で語られる能力です。
これらの能力は、乳児期の親子関係で、豊かな「アタッチメント」を育むことで、自己肯定感と探求心を育て、他者への共感力・対人関係力・学習能力の基盤を育むことで、伸ばすことができます。
すでに小・中学校で導入されている探求型学習やアクティブラーニングは、まさにこれらの能力の高さが求められる学習法です。そして、次世代の教育が重視する能力特性であり、企業が欲しがる人材の特徴でもあります。次世代教育のカギは、間違いなくここにあります。
次世代の人材を、こう呼ぶことにしました
次世代の教育は、旧世代の点数教育とは、真逆の価値観です。両者の間には、川が流れています。わたしたちは、まだ旧世代の岸にいます。子どもと一緒に川を渡って、向こう側の“次世代の岸”に行かなければなりません。
次世代教育を受け、川の向こうの価値観で育てられた子どもは、幼少期から学童期に、アタッチメント豊かに育ち、非認知能力の高い性格傾向をもち、後伸び力を信じて育てられます。加えて、コミュニケーションの道具として「つかえる英語」を、科目として点数評価される英語ではなく、リベラルアーツとして学習する機会を与えられるでしょう。
さらに、海外体験を含め、さまざまな「体験」に対して、教育予算が十分に配分され、多様な機会を与えられれば、世界のどこでも活躍できる人材に育つことでしょう。次世代の価値観で育ったこのような人材を、こう呼ぶことにしました。
世界の中のワタシ
「世界の中のワタシ」を育てるために
さて、川を渡って、わが子を“世界の中のワタシ”に育てるためには、どうしたらよいのでしょうか?わたしは、親がつぎの3つの覚悟をして、それを行動に移しきれば、それだけで十分だと考えています。まずは覚悟です。
1.“となりと同じ”という安心感を捨てられるか
2.「いま」ではなく、「10年後」の子どもの“伸びしろ”を信じてあげられるか
3.中学校までは、子どもの成績が“そこそこ”であることを受け入れられるか
サラッと書いてあるので、読んだだけだと「それくらいの覚悟なら、もうできてますよ」と思われるかもしれません。しかし、これを行動指針として、子育てする、教育するとなると、簡単なことではありません。それこそ相応の“覚悟”が必要です。
覚悟ができたら、あとは行動です。家計から、教育予算を設定して、子どもが社会人になる年齢までの計画を立てください。塾・習いごと・私立受験だけに捉われずに、教育予算を配分してください。
そして、海外体験を含め、あらゆる「体験」に対して、教育予算を惜しげもなく使ってください。リベラルアーツとして“つかえる英語”の教育をあたえてください。具体的に言うと、リスニングとスピーキングです。旧世代の英語教育が重視してきた文法やリーディングは、ここでは重要ではありません。
お金をかけることよりも、戦略と方針をもつことが重要です。
日本の未来は意外と明るい
「世界の中のワタシ」を育てるのは、より本質に近い子育てになるだけのことです。旧世代の子育ての方が、むしろ高度経済成長期の特殊なものだったと言えます。優等生の時代は、もはや終わりました。問題児や変わり者こそ活躍できる世の中がこれから来ます。企業や経済の最前線では、変化はすでに始まっています。
子どもたちが、それぞれに、それぞれのカタチで“世界の中のワタシ”に育てば・・・その子は、専門性や有能性のもと、高付加価値の仕事に就きます。次世代の日本人は、世界をまたにかけて活躍するようになり、ドイツや北欧諸国のように、人口が少なくても、高い労働生産性を維持する国となり、日本の国力は、ふたたび世界レベルになるでしょう。
子育ては、もとあったカタチに“帰る”
“ふつう”が幸せだったのは、過去の話
“その子らしい”が幸せになる時代がやってきます
“みんなと同じ”が安心だったのは、過去の話
“子どもを知る”ことが、安心をくれる時代がやってきます
その方が、自然ではないですか?
改革して“変える” のではなく、もとあったカタチに“帰る” こと
“子育て”を、自然のいとなみにもどすこと
発達のジャマをしない“教育”をすること
これから、わたしたち大人が、子どもたちにしてあげられる最善ではないでしょうか?
アタッチメントアカデミア
学長 廣島 大三