アタッチメント・ヨガ対談「ヨガ+心理学」

<橋村伸也プロフィール>
株式会社ロータス8 代表取締役。日本における、ヨガ界のトップランナーであり、ヨガ雑誌『Yоgini(ヨーギニ)』編集長。また、日本における代表的なヨガスタジオの一つである「Studiо + Lоtus8」を主宰し、有名ヨガインストラクターも多く所属している。今回、「アタッチメント・ヨガ」のメソッドを作成するに当たって、『実技』『ヨガ概論』部分を担当。

廣島:まず『アタッチメント・ヨガ』の成り立ち・生い立ちっていうところを回想してみたいなと思うんですけど、最初の出会いの部分の印象は、どんなものでしたか?

橋村:最初は、「自分の仕事とそれほど近いものではないな」という感覚だったんです。でも、ちょうど廣島さんの持ってきていただいた本がアタッチメントについて書かれていて、さらにそれを見ていくと、アイアンガーヨガの先生だった。
 

廣島:『インナービューティ・インナーライト(ルボワイエ博士とアイアンガー師のマタニティヨガの本)』ですね。

橋村:そうですね。私の根底としてはヨガの考え方があって、廣島さんはお話ししていると、やっぱりアタッチメントの考え方であったり、育児に対しての考え方であったり……。同時にそれらは、ヨガの基本的な繋がりの部分であったり、大切な部分と共通しているな、というのは最初の印象ですよね。そこからですよね、はじまりは。

廣島:そうすると、最初はちょっと関係ない分野かなと思っていて、話していくうちに結構関係しているのではないか……っていう感じですね。

橋村:そうですね。最初は「どうなんだろうな?」っていう、ちょっとよく分からないというようなところから、【育児】・【繋がり】・【ヨガ】というキーワードが、おぼろげに繋がっていったんですけれど、それに加えて、メソッドとしても、根底に流れているものとしても繋がっていて。表現の仕方が、ヨガであったり育児であったりするだけなのだ、ヨガも育児も、根本は同じものなのだと思いました。

廣島:私としては、『ヨガの語源は“Yuj”(ユジュ)なんです』と伸さん(橋村氏)から伺って、それが一気に繋がった瞬間なのかなと思っています。それまでのお互いに「ちょっとどうなんだろう?」というところから、『ユジュ=繋がる』、という言葉を聞いて、ヨガとアタッチメントが一気に繋がったと感じました。

橋村:やっぱり、お母さんと子どもの繋がりが、「実際に妊娠期の肉体的・物質的に繋がっている時期」だけでなく、「生後数ヶ月の母と子という二つの物質に分かれた時期」でも、一つに繋がっているという心理学の考え方は、すごくヨガっぽい考え方だなと思いました。

廣島:なるほど。ここで、もう少しヨガ的な解釈を聞いてみたいと思うんですけど、『繋がる』とか『本当の自分に出会う』なんていうことも、ヨガの中にはあると思うんですけど、それは、ヨガの世界ではどういうことなんですかね。

橋村:基本的にヨガっていうものは、語源は先程から何回も出ている、「繋がる」とか、「二つのものを一つにする」とかっていう意味です。ヨガっていうものは、二つのものを一つにする性質があって、それを具体的に方法論として説いて、メソッド化されているのが、いわゆる皆さんが知っているヨガなんですね。

ヨガには様々なポーズがあって、体を開いたり閉じたり、伸ばしたり縮めたり、バランスをとったりすることによって、外に向いている精神や感覚を、より体の中に向けて、普段分裂しがちな心や精神、意識というようなものと体を結びつけているんです。

もう一つは、『瞑想』。これは、難しいことではなく、目を閉じて自分の中の静けさを感じるみたいなものです。普段すごく忙しく生きている中で、見失いがちな『本当の自分』みたいなもの、『自分らしさ』とか、『気持ちいい自分』みたいなもんですかね、それを感じるんです。

廣島:「余分なものを排除したときに残った自分」みたいな感じですかね。

橋村:そうですね。人間関係や仕事など、必ずやらなければならないようなこととか、情報というものは大体、人間の個人の尊重を認めないものが多い。つまり、社会においてはなかなか個人が認められないようにできている。そんな中でずっと放ったらかされていた『本当の自分』みたいなのがいて、その自分とちゃんと対話する時間が、瞑想だったりヨガの時間でもある。そこでは本当の自分をちゃんと愛してあげる、ちゃんと気づいてあげるということがすごく大切なんです。

でも、本当の自分って、すごくエゴが強かったりするので、そのまま社会にドンっと出してしまうと、調和のとれてない状態になってしまうんですよ。すると社会と自分が反発しあうようになります。ヨガは、そうした状態に対して、調和をとることなんですよ。

廣島:ということは、本当の自分が、社会における他者と反発する?

橋村:他者であったり社会、あるいはルールと反発するわけですよ。
例えば、「私は、たばこが吸いたいんだもん、たばこを吸うのが自分の本性よ」みたいな感じで、「私らしいんだもん、これが」という人が居て、でも「ここはタバコ吸っちゃいけませんよ」っていう社会があったとしたら、それは反発を生む。

そこで一番考えなきゃいけないのが調和なんですよね。じゃあどこが調和か。この社会において、「自分がここでたばこ吸うことは良くないから、ここは吸わないでおこう」っていう、客観的に自分を見て、『今は何をすべきか』ということに対して、調和をとって考えられること。それが、ヨガの調和をとることなんです。

調和っていうのは、何かと何かがあって、それとのバランスをとるっていうことです。「本来の自分」と「社会における自分」っていうのは、必ずしも一緒ではない。その中で調和をとるとしたら、ココだと。

ただ流れに身を任せてココという点に収められているのと、俯瞰して客観視した自分の状態でココという点に収められているのとでは、全く違うわけです。

ヨガをやっている人たちっていうのは、体をいっぱい伸ばしたり、呼吸をスーハースーハーやって、最終的には何を得たいかっていうと、『自分らしい自分』であったり『自分の中の静けさや』、『一時的な感情に振り回されない自分』なんです。

廣島:そうですね、これちょっと深いとこに入ってきますよね。というのもそうだとすると、「本当の自分」って、本能的な自分ではなく、社会との間で調和の取れた自分であるということですよね。

例えばアタッチメントとか心理学の考え方でいうと、精神的に病んでいたりとか、心の病気にかかっているような人の状態を、「本能が理性に勝ってしまっている状態」という言い方をしたりするんですね。普通は理性で抑えられるようなことにおいて、本能が勝ってしまい、その行動に出てしまう。それが反社会性になっている状態のことを、精神的な病の状態というふうに言っているんですね。

今の話の中で、【社会の中でいきなりたばこを吸ってしまったらこれは駄目。だからココは吸っていい状況なのかどうなのか、というところにおいて折り合いをつけて、調和をとっていくっていうことがヨガなんです】、と伸さん(橋村さん)はおっしゃいました。結局、調和をとったりとか、距離感をとったりとか……つまり、コミュニケーションや社会性ですよね。これについてはアタッチメントの役割もまったく同じようなところがあって、実は心理学の中でアタッチメントというのは、生まれてから最初のコミュニケーションの土台を作っていく役割があるんです。

そうしたところでヨガと心理学は、繋がってくるのかなという気がします。

ヨガというものを通して、自分と社会の調和点を探していくような行為の中に、瞑想があったり、ストレッチ的なものがあったり、ポーズがあったりというような解釈ですかね。

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